和尚の修行日記平成27年2月1日

報恩供養  

 ここ数年、竹田城跡(兵庫県朝来市和田山町)は雲海に包まれた姿がまさに天空に浮かぶ城を思わせ、多くの観光客で賑わいを見せています。 そして、「天空の城」とか「日本のマチュピチュ」等と呼ばれています。 その最後の城主、赤松廣秀公は豊臣方の武将として各地の戦で功を成し、豊臣秀吉の覚え目出度く但州朝来郡(現朝来市)を拝領後、幼少より学んだ儒学の教えを奨励しました。 さらに、領民に釈典の禮を説きながら農業を推し進めました。 水田の少ない領地であった養父郡八鹿村(現養父市八鹿町)と小佐郷(現八鹿町小佐)の八木川、小佐川、円山川流域に桑の木を植えさせ養蚕を奨励し、水害時には年貢米を免除するなどの善政を布きました。

 慶長五年(1600)、赤松公は西軍方に組していたかどで徳川家康の命令により真教寺(鳥取市)にて切腹となりますが、その没後においても養父郡の領民たちは、凶作でも一揆に加わらず年貢を納めることができるのは養蚕の収入があるからで、私たちの今日があるのは赤松公のお陰であると感謝の気持ちを忘れることはありませんでした。 元文三年(1738)に八木川と小佐川の合流点近くで石碑向きの大きな自然石が見つかった際、永源寺九世大雄了覚大和尚が八鹿町大森区に赤松公の石碑を建てる提案をすると皆賛成し、翌年には工事が始まりました。 赤松公の菩提を供養する法要は八鹿町大森区にて50年毎につとめられ、昭和24年には350回忌、平成11年には400回忌法要が修行されました。 毎年、区民は赤松公の命日にあたる11月28日には供養を忘れることなく続けています。

 話は変わりますが、僧侶は袈裟というものを身に着けます。 これは僧侶にとってとても大切なものです。 袈裟という言葉は、梵語「カシャーヤ」の音写で、汚れた色を意味しています。 古来、出家者の衣服は世間的執着の対象にならないものが理想とされ、そのために不用となって捨てられた布片を縫い合わせて作られていました。 これを糞掃衣(ふんぞうえ)といいます。 人の欲望の対象にならないお袈裟を纏うことによって、煩悩からの解脱、悟りという福を生み出し、心の動揺がなくなります。 道元禅師様も正法眼蔵袈裟功徳の巻の中で、「袈裟をかけることの功徳は広大無辺であり、袈裟をかけることによって一切の悪を断じ、悟りを得られる」と説かれています。

 私は昨年11月に晋山結制式を修行させて頂いた際、檀信徒総回向の法要で紬の古着で作られた十五条雑巾刺による糞掃衣を身に着けてつとめさせて頂きました。 毎月17日に行われる観音講の際に袈裟の話をすることがありました。 その時に私は、袈裟の把針(はしん)が仏様や御先祖様への御供養になるばかりでなく、生活様式の変化に伴いやむなく不用となった和服を整縫することはその布の成仏にもつながり、赤松公をはじめとする養蚕業の発展に尽力された先人への報恩供養にも繋がるという話を致しました。 その袈裟の把針に賛同された50名ほどの講員さんが、60枚(十五条の場合、一条は三長一短)の衣財(えざい:法衣の材料)を分け合って縫って下さったのです。 私は以前に自分自身で割截衣(かっせつえ)を把針したことはありますが、皆様の思いが詰まった衣財をつなぎ合わせて一枚のお袈裟の完成を見るということは、それ自体まことに目出度いことであって、その袈裟をかけて法要をつとめさせて頂くということはこれ以上の幸せはありません。

 人間はともすれば自分一人で生きているように誤解しがちですが、全ての存在や現象は、無数の直接原因と間接的諸条件が互いに関係しあって生じています。 私自身もまた然りで、毎日修行させて頂けるのは自然の恩恵や多くの人々の支えがあるからと感謝しています。 いろいろな因縁により自分が生かされていることを自覚し、自然や他の人々との調和を保ちながらいかに生きるべきかを考え、今後とも御恩に報いる生き方の実践に心がけてゆきたいと思います。

戻る