圭秀の修行日記2012/03/10

縁起 

 近年、いつもは山にいる獣が街中まで姿を現すというニュースを耳にします。 それらは餌を求めて人里にまで下りていますが、そのような状況は山裾に位置する永源寺においても例外ではありません。 猪は、境内の苔の下にいるミミズを求めて土を掘り起こしていることがありました。 また鹿は、植木や墓前のお花をすべて食べ尽してしまうのです。 この現状を心配した寺役員が、境内の山側に鉄柵を張り巡らして下さいましたが、瓜坊や子鹿は小さな隙間から入り込み今はイタチごっこが続いています。

 永源寺は、養父市八鹿町(ヨウカチョウ)に存在し、山号を鹿苑山(ロクオンザン)といいますので、寺周辺は昔から鹿は多かったであろうと想像できますが、昨年から今年にかけては、獣の中でも特に鹿をよく見かけました。 今年は例年になく雪が多かったということもあり、山には十分な食べ物がないのでしょう。 群れをなした鹿は昼夜に関係なく鳴きながら山裾を歩き回り、へだらや笹、南天はもちろんのこと、杉の葉や皮に至るまで草木という草木を食べつくしました。 また、少し薄暗くなったある日の夕方のことでしたが、人の往来がある永源寺本堂前にまで現れて植木の枝葉を食べている鹿を見かけることもありました。 それでも飢えと寒さに耐えられない子鹿は雪に埋もれながら境内で死んでいました。

 釈尊が初めて説教された場所はインドのベナレス郊外にあるサールナートという地ですが、それは鹿の園という意味で鹿野苑(ロクヤオン)とも表されます。 きっと鹿が多かったのでしょう。
 釈尊は縁起について説いています。 縁起とは、「縁起を見るものは法を見る、法を見るものは縁起を見る」と中阿含経で説かれていますが、「縁(ヨ)りて起こる」という意味で、仏教の根幹をなす思想です。 すべての存在や現象は、無数の直接原因と間接的諸条件が互いに関係しあって生じているということで、人間はともすれば自分一人で生きているように誤解しがちですが、自然の恩恵や多くの人々の支えによって生かされている自分に自覚した時、自ずと感謝の気持ちが湧いてきます。 動物たちは厳しい自然界において懸命に生きながら生死を繰り返しています。 いろいろな因縁により自分が生かされていることを自覚し、自然や他の人々との調和を保ちながらいかに生きるべきかを考え、悔いのない生き方の実践を心がけてゆきたいと思います。

子鹿(庫裏二階から撮影) 雄鹿の忘れ物 皮まで食べられた境内の枇杷

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