圭秀の修行日記2009/10/03

八鹿町曹洞宗寺院護持会研修会
「葬送の意義」を終えて

 10月3日、八鹿町曹洞宗寺院護持会研修会が永源寺にて行われました。 今年で18回目を迎えるこの研修会は、5ヶ寺の八鹿町内曹洞宗寺院が持ち回りで年に一度開催し、各寺院の住職と護持会役員が、その年その年の議題について協議し、会食・懇談により親睦を深めることを目的として行われています。 今年は、参加者33名により先ずご本尊に対するおつとめの後、今年のテーマ「葬送の意義」についての研修会に入りました。

 葬儀と一言でいっても、その儀式の形態は時代により変化を続けています。 今日の曹洞宗の在家葬法は、実は、修業途上で亡くなった修行僧のための亡僧(ボウソウ)の儀礼を下敷きとしています。 この方法は鎌倉期に上級武士や公家に受容され、その後地方武士を通じ、各地の民間風俗や禅的意味を加えながら広く一般社会に普及することになりました。

 お葬式は内弔いと外弔いに分けることができ、内弔いでは、仏様と故人の橋渡しである導師により授戒(ジュカイ)が執り行われます。 十六条の仏戒が故人に授けられるのです。 外弔いでは、導師により引導法語(インドウホウゴ)が読まれます。 この法語には故人の経歴や信仰生活などが書かれており、その遺徳をたたえ冥福を祈るのです。 その後、弔辞・弔電が読まれ、仏弟子となった故人が仏道に精進できるようにお経を唱えます。 

 葬儀は自宅やお寺で行われるのが常でしたが、近年、地域の公民館や葬儀会館で行われるようになりました。 さらには都市部を中心に数名から20名程で行うこじんまりとした葬儀「家族葬」や、祭壇を飾る等の儀礼的なことはせず、逝去後遺体安置場所を経て24時間以上経った後、火葬のみをする葬儀「直葬」という方法も増えてきました。

 家族葬や直葬といった葬儀が増加した理由として、「死後に周囲の人達に迷惑や負担を掛けたくない」「頼れる親戚がいない」といった故人本人の希望によるもの、 「菩提寺がない」「寺との付き合いがない」といった寺と世間との隔たりによるもの、 「不況」「経済格差」といった経済的理由によるもの、などが挙げられました。

 また葬儀形態の変化の中で、喪主が香典を辞退する場合が地域によっては増えており、その為に香典のやり取りでもめた事例や、 新聞への死亡広告を出さない場合では、何らかの知らせで訃報を聞いた故人と関係のあった人たちが、四十九日の忌明法要が終わっても香典を持参する場合もあり、自宅に出入りする人の流れがなかなか途切れず、遺族が返って肉体的に疲れてしまったという説明もありました。

 その後、このテーマに対して参加者からいろいろな角度から議論が交わされました。 主なところでは、「葬儀が簡略化されるのは嘆かわしい」「葬儀は人の死を受け入れる大切な儀式だ」「葬儀の際、もっと故人の紹介をして欲しい」「家族葬や直葬は自分本位で、周囲の人に対する配慮があっても良いのではないだろうか」「お寺は檀信徒の教化にもっと努めて欲しい」などでした。

 いろいろな説明を聞き、議論を交わす中で私が感じたことは、たとえ葬儀形態が変ろうとも、人間は大切な人の死を簡単には受け入れられない、人の死を悼む気持ちは変らない、ということです。 枕経から葬儀、中陰のおつとめ等の各法要を遺族の方と一緒につとめてゆくと、その遺族が、身内の死という精神的パニック状態から徐々に心の平静を取り戻してゆくのが分かります。 葬儀が終わっても、しばらくの間私たちを襲う悲しみまでを含めて、死に向き合うことを考えなくてはいけないと思いました。

 私は葬儀をつとめる際、戒名や引導法語を考えるために、遺族に故人の人柄や一生について尋ねることがあります。 そして、その故人の人生を垣間見ることで 「生きるとは?」 ということをよく考えさせられます。 修証義のはじめにも「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり(ショウヲアキラメ シヲアキラムルハ ブッケイチダイジノインネンナリ)」とありますが、この問いは今昔を問わず私たちに課せられた重大な難問です。 時代の流れによりたとえ葬儀形態が変化しても、「死」を忌み嫌わず、この問いにしっかりと向き合うことこそが現代に求められていることではないでしょうか。 私自身にとっても難しい問題ですが、少しでも深く掘り下げて理解できるように、この教えを教化できるように精進してゆきます。

戻る