2004/03/27

 法戦式(ホッセンシキ)を終えて

「圭秀さん、春に静岡で首座(シュソ:禅林で衆僧中の首位に当る役目)をやるんだって?」
昨年の暮れ、私は永平寺(エイヘイジ:曹洞宗大本山)で、ある雲水(ウンスイ:修行僧)にいわれました。
「えっ、どういうこと?」――
と、寝耳に水の私に静岡県より修行にきていたその雲水は次のように説明しました。 彼の師匠が焼津市にある旭伝院(ギョクデンイン)というお寺の晋山式(シンサンシキ:新しい住職としてその寺院に正式に入る法会)の通知を受け取った時に、私の名前が旭伝院首座として書かれてあったというのです。 私は彼の言葉を信じられず、半信半疑で聞いたのを覚えています。

 予期せぬ彼の知らせから4ケ月後、私は実際静岡県を訪れることになりました。 やはり彼の言葉は本当だったのでした。 2月21日の永平寺送行(ソウアン:修行を終え下山すること)直後、師匠より旭伝院の晋山結制(シンサンケッセイ:晋山に因んで結制修行を行うこと。 晋山式、晋山上堂、首座法戦式という一連の儀式と三ケ月の修行をこの様に称する) のことを聞きました。 期日は3月26日。 私は旭伝院の首座となっていたのでした。 ちょうどこの日は、旭伝院開山禅師様(眠芳惟安大和尚)の50回目の命日なので、50回大遠忌の法要も一緒に営まれることも知らされました。

 旭伝院は永源寺と深く関係のあるお寺なので、新命(シンメイ:新しい住職)となられる青木老師や前住職の田中老師とは面識がありました。 しかし旭伝院を訪れたことがなかったので、どのようなお寺なのか、また青木老師や田中老師の他に知っている人はいるのか、期待と不安が入り混じる中、3月16日に上山致しました。 旭伝院の山号は田中山(デンチュウザン)。その名の通り田んぼや畑、民家に隣接し、小高いところにある永源寺とは立地条件のかなり違うお寺でした。 本堂を中心として、その奥に開山堂兼位牌堂、横には庫裏、そしていくつかのお堂や建物が境内に点在していました。 本堂正面には全檀家さんのお墓があり、その中心に樹齢600年ともいわれる大きな松が聳え立っていました。

 伽藍をゆっくり眺めながら庫裏の中へと足を踏み入れたのですが、そこで私は因縁めいたものを感じざるを得ませんでした。 青木老師や田中老師はもちろんのこと、青木老師のお弟子、そして手伝いにこられていた方々・・・ 式の準備に尽力されている方々を見て、到着するまでの不安は一気に消え去ってしまいました。 なぜなら、過半数の方と以前に一度は会っていたからです。 新命様は宝慶寺専門僧堂(ホウキョウジセンモンソウドウ:福井県大野市)の単頭老師(タントウロウシ)様ということもあって、手伝いにこられていた方は宝慶寺様に関係の深い方が多く、私が師匠探しに明け暮れていた3年前、宝慶寺様に参禅にいった際、私を世話してくださった方々も旭伝院におられたからです。 その時の情景がよみがえり、驚きと共に懐かしい気持ちになりました。私がこのように首座として旭伝院に上山したのも、何かの御縁があったとしか言いようがありません。

 首座寮(シュソリョウ:首座の起臥する寮舎)に至っても同じようなことがいえました。 宝慶寺様で現在も修行している弁事和尚の狩野様とも3年前に顔を合わせていましたし、永平寺に5年おられた書記和尚の松永様は、永平寺での修行時期が少し重なっていたので、初対面であるはずの3人はすぐに打ちとけました。 そのかいあって、晋山式までの準備等の流れはスムーズでした。 新命様を中心に各伽藍の掃除から始まり、看板や幕の設置、最終的な本堂の飾りつけに至るまで、教区御寺院様の協力もあって大きなトラブルもなく進みました。

 そしてこのような出来事もありました。 庫裏玄関脇に植えてある木の枝に、鳩が巣を作り卵を温めていたのですが、その卵が24日にふ化したのでした。 私の背丈ほどの位置に巣を作ったので、野良猫などがその巣を襲うのではないかと心配していたのですが、ふ化したことで多少安心しました。 お祝い事が重なり、私たちも更にやる気が出ました。 そして雛が無事に巣立って欲しいと願うのでした。

 晋山式前日の25日の午後には首座入寺式(シュソニュウジシキ:首座を請するための儀式)、土地堂念誦(ドジドウネンジュ:叢林において修行の安穏を願い、またその円成を感謝して土地神に祈念する法会)、配役本則行茶(ハイヤクホンソクギョウチャ:それぞれの配役が述べられ、法戦式の前に本則をあらかじめ大衆に披露するにあたって煎茶を供すること)、旭伝開山50回忌大遠忌逮夜が行われました。 最後に法戦式の進退ならしがありましたが、皆様の視線を浴び、本番さながらの法要の練習は、とても緊張しました。 しかし、徐々に実感が湧き、意識の高ぶりが自分でも分かりました。

 6時から祝麺(うどんと精進弁当)をいただきました。 教区内の御寺院様が前々日より5名で作ってくださったのですが、毎晩夜遅くまで仕込みに時間を費やしてくださいました。 お弁当に関しては "精進でこのようなバラエティーに富んだ料理が作れるのか" と思わせるほどの品々に驚きの連続でした。 私は永平寺の大庫院(ダイクイン:台所)で修行させていただいた時に、精進料理の作り方を少し勉強させていただいたのですが、今回の料理は色取りや味付けなど、勉強させていただきたいと思うことばかりで、仕込みの時に作っている様子を見学すべきだったと後悔しました。 おなかいっぱいになった後は明日の最終確認をして、50数名のお稚児さんの行列が中止にならないよう "どうか晴れますように" とみんなで祈りながら早めに休みました。

 私たちの祈りが天に届かなかったのか? 朝、窓から外を見ると、しとしとと雨が降っていました。 これではお稚児さんの行列は中止です。 新命さんはじめ私たちは、落胆してしまいました。 しかし、お稚児さんの行列は短縮して行われましたので、気持ちを入れなおし式に臨みました。

 先ず、法要は入院晋山(ニュウインシンサン:新命様が初めて寺に入る時に行う儀式である)から始まり、祝国開堂(シュッコクカイドウ:新命様が法堂を開いて仏法の宗旨を演説し宣揚する儀式)、旭伝開山禅師50回大遠忌と続きました。 シーンと静まり返った堂内で淡々と進みました。 祝国開堂の時、新命様が須彌檀(シュミダン:仏像を安置する壇)にのぼり、次々と投げかけられる問いに答える場面があるのですが、一問一問力強く答えられ、その迫力に圧倒されるほどでした。 50回大遠忌では、18拝差定という一般にはあまり経験できない法要が営まれ、その法要に随喜できたことは私にとって勉強になりました。 また、旭伝開山禅師様は深く関係のあるお方なので、恩に報いるためにも次の法戦式に臨む心構えは確固となったのでした。

『挙す。梁の武帝。達磨大師に問う、如何んが是れ聖諦第一義、磨云く廓然無聖。帝云く、朕に対する者は誰そ、磨云く、不識。帝契わず、遂に江を渡って少林に至り、面壁すること九年。』
 本尊様に三拝して、般若心経を読経した後、首座の挙則(コソク:本則を唱えること)より法戦式は始まりました。 厳粛な雰囲気の中、堂内に私の声が響きました。

 尊宿方へのお拝の後、いよいよ法問となりました。 新命様より竹箆(シッペイ:師家が学人を接得する法具)を受け取り、気合を入れなおし問答に挑みました。
『這箇はこれ三尺のコクガンジャ、昔日霊山に在っては金波羅華となり、また少林に伝えては五葉となる。 或時んば、則ち龍と化して乾坤を呑却し、或時んば、則ち宝剣と作って殺活自在。 即今、師命を奉じて予が手裡に落在す。 恰も蚊子の鉄牛を咬むに似たり。 然りといえども、任に当たって他に譲り難し。 乞う満堂の龍象、試みに法戦一場せんことを。 開口闍梨、説破を挙せよ、看ん。』

 「拈竹箆(ネンシッペイ)の法語」を唱え終わるや否や、堂内のあちらこちらから気鋭の大音声による問答が投げかけられました。
『作者は、発菩提心。乞尊意。
    菩提心を発すというは、自未得度先度他の心を発すべし。
中々、元来大地に衆生なしだぞ。
   観音菩薩、三十三身を現じたもう。
尊意、尊意。
   菩提心に引かれて、菩提心に出でらるなり。
正得、菩提心の道に身心をおしむとも、生老病死あることを如何せん。
   たとい石橋は腐るとも、誓願は腐らず。
珍重、万歳。』


『作者は、法門の大綱、乞尊意。
    本来本法性、天然自性身。
 中々、諸佛諸祖、なんとしてか発心修行、菩提涅槃したもうや。
    宝石も磨かざれば光なし。
 尊意、尊意。
    この法は人人分上。豊かに備われりと雖も、いまだ修せざるには現われず、証せざるには得ることなし。
 第一座、我が為にさらにいえ。
    叉手出班。合掌帰位これなり。
 珍重、万歳。』 ・・・   
    

 問答は10問で終りましたが、心臓の鼓動を体全身に響かせ、真っ赤な顔をした私は、その時肩で大きく呼吸をしていました。 その体を深呼吸で落ち着け、新命様に竹箆をお返しした後、尊宿方にお拝をしてまわりました。 最後に祝語をいただき、普同三拝の後、無事に式は終わりました。 あっという間の1時間でしたが、自分なりに納得のできる式であったと、心地よい達成感を味わうことができました。

 朝の雨が嘘のような強い日差しを浴びながら本堂前で記念写真を撮り、檀信徒総回向の法要の後、場所を変えて中食を取りました。 書記和尚様と共に随喜御寺院様へ挨拶に回ったのですが、皆様から「お疲れ様」 の言葉を掛けられると、それまで張っていた緊張の糸が徐々に緩んでいきました。
 挨拶が一通り済み時計を見ると、既に午後3時となっていました。 皆様といろいろな話をしたかったのですが、翌日からの予定が立て込んでいたために私は永源寺へ帰るべく、名残惜しい気持ちを押さえ、その場を後にしました。

 電車の中で私は晋山式当日までの出来事を振り返りました。 すると自然に感謝の念が湧いてきたのでした。旭伝院の首座という御縁をいただいたことに感謝すると共に、新命様はじめ準備に関わった方々、法要に随喜された随喜御寺院様・・・ いろいろな方のお陰で無事に式を終えることができたことに感謝致しました。皆様の恩に報いるためにも、今度は私が何かの折にはお手伝いさせていただきたいと思いました。

 "獨龍松(ドクリュウショウ)"これは旭伝院に聳える松の名です。 私もこの松同様、どっしりと腰を据えつつ、松が天を目指しながら少しずつ成長するように、将来立派な僧侶になれるよう決意を新たにした首座法戦式でした。

戻る