圭秀の修行日記2003/08/21
 

能登拝登を終えて

 8月20日、21日の両日、能登祖跡拝登に参加させていただきました。 この拝登は、お盆期間中に師寮寺(シリョウジ)へ帰らず永平寺での公務を務め続けた雲水(ウンスイ※1)に対して、労いの意味を込めて役寮(ヤクリョウ)様が計画してくださったものです。 お盆の間、私はお山に留まっていましたので、それに同行させていただくことになったのです。
 頭陀袋を肩から掛け、直綴(ジキトツ※2)、絡子(ラクス)の威儀(イイギ※3) に身を固め、役寮2名を含む合計66名の参拝団は、高祖様(コウソサマ※4)、太祖様(タイソサマ※5)、その他のお祖師様方にゆかりのある北陸の地を巡りました。

 この拝登は次の日程で行われました。
8月20日: 永平寺竜門(7:30) →大乗寺※6(9:20) →天徳院※7(10:45) →金沢市内にて食事(12:00) →瑞龍寺※8(13:50) →永光寺※9(15:50) →宿泊地(和倉温泉)到着
8月21日: 宿泊地出発(8:30) →総持寺祖院※10(9:30) →輪島の朝市(11:20) →輪島漆器会館(12:20) →石川県立美術館(15:00)→松任市内にて食事(16:40) →永平寺竜門到着(19:20)
 
 あっという間に過ぎ去った2日間でしたが、いろいろな場所を拝登させていただきました。 その中には、以前より一度はお参りしたいと思っていたお寺もあり、お陰様で念願も叶い充実した時間を過ごすことができました。 石川県立美術館では、高祖様が写本された碧巖録(ヘキガンロク※11) 等を拝見することもできました。 もし個人で同じ行程を参拝するとなると、大分費用がかかるであろうと思われる拝登でしたので、同行させていただき非常にありがたく思いました。
 今回の拝登で、曹洞宗は北陸を中心として全国へ広まっていったことを再認識させられました。 私は金沢で学生生活を送っていましたので、今思えば、古都での暮らしというご縁をいただいた時分に、多くの寺院仏閣を訪れておけばよかったと思いました。

 このようなこともありました。大広間での薬石(ヤクセキ※12) の際、永平寺ではいただくことのできないお酒が振舞わられたのですが、徐々に皆様の顔色が紅くなってくると、いつも鋭い眼光で新到和尚(シントウオショウ※13) を叱り付ける堂行寮(ドウアンリョウ※14) の方が、満面の笑みを浮かべながら大声で歌い始めたのでした。 日々の修行生活では見ることができない一面を垣間見ることができ、雲の上の存在であった堂行寮との距離が狭まったような気がして親しみを感じました。 上下関係が厳しい永平寺ですが、この時ばかりは役寮、雲水共に一つになり、歓談しました。 薬石後も今まで話をしたことのなかった人と語り合え、皆様と親睦を深めることができました。
 永平寺を離れ、いろいろと勉強させていただいた2日間でしたが、祖跡を実際にお参りすることで新しい発見や疑問が生まれ、これらのことをさらに探求してゆこうと思いました。 


(備考)
※1: 修行僧のこと。
※2: 法衣のこと。
※3: 威厳のある容儀。人に崇敬の念を起こさせる容儀のこと。
※4: 曹洞宗の開祖である永平道元大和尚。
※5: 瑩山紹瑾大和尚。道元禅師様が高祖と称されるのに対し、瑩山禅師様は太祖として仰がれる。高祖様より4代目の法孫であり、弟子を育て現在の全国の曹洞宗教団、曹洞宗寺院一万三千ヶ寺に及ぶ発展の基盤を作った。
※6: 金沢市長坂町に所在し、弘長3年(1263)現在の石川県野々市町に加賀の守護富樫家尚氏が真言僧、澄海を寺主とし真言宗寺院を建立したのが起源とされる。永仁元年(1293)永平寺三世徹通義介禅師は澄海や富樫氏の要請で、大乗寺の勧請開山となり、僧澄海を開基とする。
※7: 金沢市上鶴間町に所在し、元和九年(1623)加賀三代藩主前田利常の妻、24歳で亡くなった珠姫の菩提を弔うため、建立された。開山は徳川家康が崇拝した、巨山泉滴大和尚を長安寺(千葉県)より招いた。
※8: 富山県高岡市関に所在する。承応3年(1654)加賀二代藩主前田利長の菩提を弔うため、三代藩主の利常によって建立された。壮麗な伽藍は中国浙江省の径山萬寿寺を模したものと伝えられる。山門、仏殿、法堂が平成9年に国宝に指定された。
※9: 石川県羽咋市酒井町に所在する。瑩山紹瑾大和尚の開創、そして終焉の地。後醍醐帝、後村上帝、後土御門帝の寄進を受け輪住制をしいて能登地方展開の拠点となった。五老峯伝燈院には高祖天童如浄禅師の語録、曽祖永平道元禅師の霊骨、師翁孤雲懐浄禅師の血経、先師徹通義介禅師の嗣書、瑩山禅師の嗣書がおさめられ日本曹洞宗の霊場となっている。
※10: 石川県鳳至郡門前町に所在する。1321年、瑩山禅師の開創。明治31年火災によりほとんどの伽藍を焼失したが、明治38年総持寺貫主となった石川素道禅師は宗門の現代的使命を果たすため、現在地の横浜鶴見への移転を決定した。
※11: 現存する最古の写本で、高祖様が宋より帰朝する際に碧巖録を入手し、八十則までを自ら、八十一則以後は神人の助力によって一夜のうちに書写し終わったという。
※12: 夕飯のこと。
※13: 永平寺安居1年目の雲水
※14: 永平寺安居1,2年目の雲水を取りまとめる安居歴3年目以上の雲水


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