上山者(参禅者)の声

 永源寺の生活は、坐禅や読経などの他、境内の掃除や、典座寮(台所)における日常のおつとめをはじめ、時には托鉢をしたり、裏山の草木を切って生け花をしたり、法語作成のために漢字(平仄や韻)を学んだり、習字の練習をしたり、お袈裟の把針(縫うこと)をしたりと、季節に応じて様々です。 大自然に囲まれた環境に加え、地域の人々と共に行持(ぎょうじ:行は修行、持は護持・継続の意)をつとめている永源寺には、時々、参禅希望や修行希望の方が来られますが、その方々にこの寺についての感想文を書いていただきました。 どうぞ御一読下さい。




行雲流水  小椋利雄

 十一月十九日の坐禅会に参加させていただきました。当日、下の駐車場に車を止めました。山門、本堂を眺めますと、その美しさに凄いなと感じ、さらに階段を上り、街を眺めますと寺が、風景と一体となっていると言ってよいのでしょうか、そんなお寺だと。

十九時に、庫裏にお邪魔しますと永源寺ホームページと同じ佐々木和尚様が見えられました。その後、坐禅堂下の円通閣で合掌、礼拝の説明を受け坐禅堂へいきました。但し、坐禅堂内単は修行者の神聖な場所なので入れないとのことで、坐禅堂外(がい)単(たん)で坐りました。

清々しいものを感じました。そして、そのまま坐りました・・。そのうち他の方々が、やって来られ各自坐られ「止靜鐘(坐禅始まりの鐘)」が鳴り、四十分経った後何もなく静かなうちに「放(ほう)禅(ぜん)鐘(しょう)(坐禅終わりの鐘)」が鳴りました。そして、皆それぞれ帰って行かれました。坐禅会では、般若心経を読経したり、あるいは、普(ふ)勧(かん)坐禅(ざぜん)儀(ぎ)、坐禅(ざぜん)用心記(ようじんき)、修証(しゅしょう)義(ぎ)をお唱えしたりするのに慣れていましたので新鮮でした。

坐るだけ。
「そっと、目をふせて 座ってごらん 感じるでしょう この今を ・・・」
道元禅師讃歌より

住職様も堂内を巡堂されませんでしたので、警策もありませんでした。
貴重な体験でした。
灯火による自分の影。
遠くの音

「只坐る」 
それだけなんですが、逆に新鮮でした。
私の知る限りですが、兵庫県の曹洞宗には、坐禅堂を持つ寺は、四ヶ寺あります。
坐禅会も、数人くらいのところから、百名を超えるところもあります。それぞれ特色があります。曹洞宗の禅ですから坐り方に違いがあるわけではありませんが、指導される和尚様の修行で得られた事などが、指導に滲んでくるのだろうかと、勝手に思っております。
 濁りなき心の水にすむ月は 波も砕けて光とぞなる 光とぞなる  
坐禅御詠歌(浄心)

道元禅師のお持ち帰りになった禅に、もっと近づきたい、そう思い、今後もいろいろな会に参加する所存です。
十年前より但馬の永源寺様へは行きたいと思っていましたが、今回仏縁に導かれてやっと参禅することが出来ました。ありがとうございました。また、機会があれば八鹿に来たいと思います。