上山者(参禅者)の声

 永源寺の生活は、坐禅や読経などの他、境内の掃除や、典座寮(台所)における日常のおつとめをはじめ、時には托鉢をしたり、裏山の草木を切って生け花をしたり、法語作成のために漢字(平仄や韻)を学んだり、習字の練習をしたり、お袈裟の把針(縫うこと)をしたりと、季節に応じて様々です。 大自然に囲まれた環境に加え、地域の人々と共に行持(ぎょうじ:行は修行、持は護持・継続の意)をつとめている永源寺には、時々、参禅希望や修行希望の方が来られますが、その方々にこの寺についての感想文を書いていただきました。 どうぞ御一読下さい。




永源寺を拝登して    東京 永見寺 葛西好雄

 この度、法類会の秋期研修旅行で永源寺を拝登する機会に恵まれました。永源寺の現在の住職と私どもは、法類という関係にあたります。昔、僧侶は家庭を持たなかったので、お釈迦様から代々師匠と弟子という関係で親類関係を築いてきました。これを法類と言います。遡りますと、江戸時代、永見寺17世だった泰麟道海大和尚(〜一七九〇年四月二十三日)は優秀な弟子を育て故郷にサザエ堂(円通閣)をつくるなどの事蹟を残しました。直接の弟子たちは師の教えを継承し、互いに助けあうために法類会を形成しました。弟子の一人錦州臥光和尚の系統は浅草田圃の萬隆寺を中心にし、近年の方だと来馬琢道老師や奈良康明先生がこの系統になります。泰俊貫道和尚は泰巖曹隆という弟子を輩出しましたが、曹隆和尚は幕府から高潔な僧として江戸城に呼ばれ表彰されたといいます。曹隆和尚が若かりし頃の西有穆山禅師を見出し、出世の道を開いた人物です。

 永源寺は西有禅師のお弟子様の岸澤惟安老師が住職されて縁ができた寺院です。関東が中心である当法類会では永源寺の代々の住職とお会いする機会がございません。前回法類会で永源寺に拝登させて頂いたのは私の師匠の時代のことで、昭和四十年代と承っています。その時は岸澤知等老師が出迎えてくれ、殊の外、喜んで下さったとのことです。当永見寺も普請をしていた時期で、書院客殿の落成に合わせて私の師匠は晋山開堂の法要を行いましたが、拝登を縁として知等老師にもはるばるお越し頂き、落成式のお導師を務めて頂きました。年端のいかぬ私も弁事という小役を務めましたが、知等老師のお姿をおぼろげに記憶しています。

 私自身は初めての拝登になります。山裾の境内地は細く、利用の仕方も難しいようですが、地形を利用して構えられた伽藍群は素晴らしく、手間がかかっていることが分かります。長い階段状の参道を登ってゆき、野圦孝純老師筆「鹿苑山」の額が掛けられた山門をくぐります。西有禅師の書風に揮毫されています。そして山内には曹洞宗を支えたゆかりの老師方の筆になる額や掛け軸が惜しげなく掛けられていました。私の法類としての大叔父、榑林皓堂先生や指導を受けた酒井得元老師(ともに紫竹林で岸澤惟安老師に参随されていました)などから、惟安老師の厳格さを時折伺っていました。今回、開山堂の簾、荘厳具などを目の当たりにし、端々に格式を重んじた岸澤惟安老師の意志を感じ取ることができました。一方、新しい建築の円通閣は坐禅堂と研修施設を備え、これは羨ましい限りです。奇しくも類祖の建てたサザエ堂と同じ名称です。ここで現董の佐々木圭秀老師は梅華講(御詠歌)を組織し、時代に合わせた活動も行っているとのこと。それに優しそうな奥様。岸澤精神が受け継がれるとともに、また新たな時代の要素に彩られ、永源寺の歴史が積み重ねられていくと感じた次第です。今後の発展とご活躍をお祈りしています。